障害の理解
小学校で必修科目にすべきなんじゃないかと思うが・・・
小学校で数学を教えないのと同じ意味でやるべきではないんだろうなー・・・
とも思う。
中学校の頃、恩師に出された課題
もう全く内容を覚えていないが、数学の世界では大学生以下に出題してはいけない問題と位置付けられている物があるらしく、それです。
簡単に言うと、算数の基礎だけで解ける問題だが、複雑すぎて時間が掛かる。
簡単故にどんどん先に進むが、進む速度に脳が追いつけなくなる恐れがあり
限界に達すると「思考」がクラッシュするらしい。
数時間後に激しい頭痛に突然襲われて強制終了されたことを覚えている。
しかし、内容を全く思い出せない。多分脳が拒否して忘れたんだろうと思う。
さて、本題
「障害の理解」とは・・・短大で学んだ講義の単位として存在するものですが、
俺の視点で話します。
「障害の理解」=「障害」(人的または、その人自体)を理解する事
「〇〇な人」の〇〇を客観的に理解する。
「〇〇」=「声が大きい」「人見知り」「暴力的」「消極的」「積極的」等々
「声が大きい」→いつ、どこで、どのように→「何故?」その理由や意味を知る。
俺は「なるほどね!」と思うことに納得する。
逆に、「何故?」と思うと探求する。
納得の先にあるものは「選択」更にその先は、共感か否定
探求の先にあるものは「安らぎor挫折」
納得できないことに、共感は無い
探求しなければ、納得することは無い
わからない=拒否か否定
拒否か否定とは「いじめ」に発展するものだ。
小さい頃に「障害を理解」することができたなら、「いじめ」なんてなくなる。
しかし、理解できるとは到底思えないし、一歩間違えると洗脳・独裁につながる恐れもある。
故に必修科目にはでいない。
十人十色を理解してても、納得できないこともある。
個性を尊重することは大切だが、残念ながら暴力的な人もいる。
否定と差別は似ている。
理解と差別は全く違う。
暴力を否定することは、考え方次第では差別
許されない=理解されない。
納得できることばかりではない=いじめは無くならない。
大人でも納得できないことを子供に押し付けるのは難しい。
障害を理解し受容できる人もいれば、否定し毛嫌いする人もいる。
あたりまえ、それを理解させることは不可能
故に必修科目にはできない(2回目言っちゃった。)